米大統領が、初めて被爆地である広島を訪問したことが大きく報道されています。
私は案が出た時より、その行為を肯定的に捉えていたのですが、大統領と被爆者が抱き合った映像を見て、その思いをより強くしました。「許される」そして「許せる」ことが、こんなにも素晴らしいことなのかと思ったのです。
以前に、多様性を認めるのにも自分の心との葛藤があると書きましたが、人はどこかで“自分が正しい”と思いたい気持ちを持っています。自分は間違っていない、悪いのは相手だ、その思いが認めたり、許したりすることを妨げています。
私は戦争を体験していません。しかし、歴史を学ぶことを通して、戦争の恐ろしさや悲しみ、そして憎しみは伝わっています。「自分が実際にされたわけではない」のに「相手を恐れ、憎んでいる」それは次の世代へ引き継がれ、事の当事者同士で解決することは永遠に叶わず、憎しみは濃縮されていく。
そうであるならば、何のために歴史を学ぶのだろう?初めから何も知らなければ、次の世代は全ての国の人と仲良くなれたのかもしれないのに…
米大統領も実際の加害者、被害者ではありません。しかし、引き継ぐ者の代表して、実際の被害者である被爆者へ歩み寄った。過去をゼロには出来ないけれど、ここからまた歩み出せるような、謝罪とか世論とか様々な考えや思いを、抱き合う姿は超えていったように思います。
いつまでも憎しみ合ってはいけない、と頭では分かっていても、許すのは本当に難しいことです。しかし、その先には憎しみで傷付け合うよりも大切な関係性のスタートが確かにあるのだと今回の訪問で感じることが出来ました。この瞬間を見られて本当に良かったです。
最後に、おそらく、現オバマ大統領でなければ訪問は不可能であり、被爆者の方が存命の間と考えると、今回が唯一のチャンスだったのだと思います。今の仕事に就いて交渉の難しさを痛感する分、達成のために水面下で交渉してきた日米の裏方に敬意を表します。