私は子どもの頃、ピーマンが苦手だった。
給食にピーマンが出ると決まって居残りさせられて、みんなが掃除している中、ピーマンと格闘していた。
教員は、苦手なピーマンと格闘すれば、戦友になって食べられるようになるとでも思っていたのだろうか。あいにく私が彼(ピーマン)と分かり合えることはなかった。
だって、苦いもん。
もちろん、食材を残すことは、悪いことだと思う。
ただ、苦手な食べ物を無理に食べさせられる必要性は未だに分からない。
ピーマンに含まれる栄養素は他の食材で補えるのに、無理して食べる必要があるのだろうか。それは逆に、ピーマンに対しても失礼なのではないかと思っている。あの苦み(個性)を理解してくれる人に食べられた方がピー生(ピーマンの人生)も幸せだ。
出来ないことや嫌なことと遭遇した時、「我慢しなさい。我慢した先に得られるものがある」と言われる。
でも、本当だろうか?
私がピーマンとの闘いの日々を覚えているのは、幸福な記憶だからではない。嫌な記憶だから未だに覚えているのだ。苦手なものを強要されて、“給食の時間自体”を嫌いにならなかったのは不幸中の幸いと言えよう。
苦手なことと接し続けると、それに付随するいろいろも苦手になりやすい。
それは悲しいことだと思う。
他にも、「こんなことも我慢できないと、ろくな大人になれない」とも言われる。
もうね、そんな決め付け方がロクデモナイ。たった一つの出来事だけで、人生は決まらない。
給食を例えにしているけど、姿形を変えて、こういうことはたくさんある。
勉強、学校、仕事、人間関係、いろんなところで我慢大会が開かれている。
耐え抜いた者だけが賞賛され、脱落した者にはレッテルが貼られる。
それが自分にとって本当に必要な時ならば耐え忍べば良いけれど、「みんなそうしているから…」などの理由なら、まずは「自分がどう感じ、どう思うのか」に集中したい。
ちなみに、私、今はピーマンを食べることができます。
克服したんじゃない。時が来たら、食べられるようになった。
別に苦手なものを無理して乗り越えなくても、他の乗り越え方だってあるのだと思う。
給食が嫌な思い出ばかりで満たされるよりも、苦手なものは食べられずとも、楽しい思い出で溢れる方が良いと、私は思うな。
しち おう/志智 央
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