先日行なったまちづくりミーティングが、とても心地良く感じて、「何でだろうか?」と考えていました。
一番の理由は、参加された方たちのことを私が好きだからだと思いますが、それ以外にもありそうだ。“体は大人で頭は子ども”な逆名探偵コナンばりの洞察力で振り返ったところ、彼らが人の意見によく耳を澄ます人たちであったことに気が付きました。
まずは聞く。そして、“自分の意見”を述べる。話し手に対して異なる考えを主張する時もあるけれど、誰かや何かを否定することはしない。そんな人が気持ちよく話すための心得を、実践できている方たちばかりだから、話しやすくて、つい身の上話までも喋っちゃうんだなぁと感じました。
挫く人
反対に、心地良くない会話ってどんなものだろう。最近つらかった会話を思い出すと、一つ思い浮かぶものがありました。それは、全てを否定されることです。
何を話しても、返ってくるのは「何それ」「難しい」「出来ない」
負けずに、「こうしたら良いかも」を提案しても、「どうせ無理」の波状攻撃。
うわ、これ何言ってもあかんやつや…
と、出来ない理由を数え上げられつつ、耐えるだけのつらい会話。。
誤解されると困るのですが、不満や愚痴は良いのです。誰しも抱えるものだし、話すと発散されるのであれば言えば良いと思います。ただ、前向きな言葉を全て否定されるのが苦手なのです。
否定するだけでは、何も生まれません。前向きな人も、ずっとそんな言葉に触れていたら、次第に心が挫けて「じゃあ、止めておこう」「どうせ無理なんだ」に陥ってしまいます。そして、挫けた人は、その「無理」を更に周りに広げて伝染していきます。
「頑張っても無駄」と言われ続けてきた人と、「工夫すれば出来るかも」「こうしたら良いかも」と共に考え続けてくれる誰かがいた人とでは、その後の取り組みの幅にはきっと差がある。
批評よりも発明を
生活する上で、難しいことや一見すると出来ないことは数多くあります。そんなの分かってる。本当に知りたいのは、出来ない理由じゃなくて、出来る方法なのだと思います。批評家よりも、問題を突破する発明家がこれからは必要とされる。挫く人の前からはそっと逃げつつ、可能性の幅を広げられる人たちに囲まれていたいし、私もその一員になりたいと思いました。