大野市長の通夜と告別式を終えました。
寂しい気持ちが先に立っていましたが、穏やかな表情で眠られる姿(いなッピーのぬいぐるみも一緒だった)や、たくさんの人に惜しまれつつ見送られる姿を見て、少し落ち着くことが出来ました。市長、長い間お疲れ様でした、そしてありがとうございました。
人の死に触れると、日常が当たり前ではないことに気が付きます。私は病院に勤めていたので、一般の方よりは死が身近にありましたが、いつもそばに在る終わりをすぐに忘れてしまいます。「将来は…、5年後は…、来月には」と、もしかしたら明日さえ無いかもしれないのに、不確定な未来に委ねてしまう。
病院では毎年、患者さんと桜を見に行っていました。上司の考案で始まりましたが、外の空気や四季に触れる、日常を思い出す以外にも、もしかしたら「来年は見ることが出来ないかもしれないから、今、見よう。」という思いがあったのかもしれません。
桜はいつも綺麗で、見に来て良かったと思うと同時に、来年も見たいという願いを生みます。それは期待や希望になって、「来年はお前(私)とじゃなく、家族と桜を見たる!」と、日々の生活に生きてきます。
未来から今が導かれるときもありますが、そこへは今を積み重ねなければ辿り着けません。未来のために今があるのではなく、今のために未来があって、「今」はこの瞬間だけなのか、今日を表すのか、それともこの年なのか、人によって違うと思いますが、「それぞれにとっての今の内に生きる」ことが大事なのだと感じました。
同じように見える毎日の中でも、「今日は何をしようか」と考えることで、アクセントのある一日を過ごしたいです。