以前の職場で、子育て中の女性が「困っている」と言った時に、周りの先輩ママたちが「私の方が困っているアピール」をした時があった。私は、子育ての経験がある彼女たちだからこそ困っている背景にまで理解が及ぶのかと思ったら、そうではなかった。
育児に限らず、困り事が1つの人を見て、困り事が2つの人は「私の方が困っている」と言い、その人を困り事が3つある人が笑っている。キリがない。こんな風では誰も声を上げられない。みんな困っているのは“共通”なのに、異なる部分を取り上げて傷付け合っている。
不満を言った先輩ママも、きっと被害者なのだと思う。彼女らも子育て中に「困っている」と言って、周りの人から「そういうものだから」「母親なんだからしっかりしなきゃ」「私の方が大変だった」と言われたのではないだろうか。
その人が「困っている」と感じた時点で、それは「困り事」で、発信者が誰であれ解決したい事柄だと思う。◯◯以上の不幸でなければ、悲しんではいけない、助けを求めてはいけない、そんなことは無いはずだ。
一番恐ろしいのは、困っていると言えない空気になることで、誰かの助けを認めないことは、自分の助けを認めてくれないことに繋がっている。今は良いかもしれないけれど、いつ逆の立場になるなんて誰にも分からない。
生活保護を受けている人へのいじめ、最近の子どもの貧困に対するバッシング、相模原市の障害者殺傷事件、根っこにあるのは同じ問題のように感じる。不幸の比べ合いなんてもう止めて、何に困っているのか本質を探り、じゃあどうすれば良いか解決策を練ることに力を注ぎたい。